・「自然農」の基本、そして真に持続可能な農について ――川口 由一

【耕すといけない】

 地球生命圏における持続可能な正しい農のあり方の基本は、耕さないことです。先人の努力と苦労で作られた水田や畑のその表面、あるいは地球の表面を耕さないことが最も大切であって、耕すといろんな問題が生じます。生じた問題の解決のために考えて答えを出さざるを得なくなり、出した答えが正しい結果とならずに新たな問題を招くことになります。例えば耕したために時の経過の中で土がかたくしまって、再び耕さざるを得なくなります。種を蒔く為に、苗を植える為に、作物の根の成長を助ける為に、土中に酸素を送る為に……と、作物の生育期間中に何度も耕さざるを得なくなります。そして一度耕したゆえに耕し続けざるを得なくなります。その為に、現代に至っては耕運機、トラクター……となり、それらの大農機を製造する工場の建設、そして必要なエネルギーの準備、調達、そのうえで耕運に必要な石油の準備、は又々大変な作業、苦労と無駄となります。その輸送に必要なことごと、それらに伴う必要なものの準備、調達等々は、いずれも有限である資源です。それらに必要とする人員数、労働時間……すべては限りのある有限であって無限に存在するものではありません。……本当に大変なことになっていきます。あるいは、耕すという作業は過去の歴史を断ち切り諸々の動植物を死に追いやることになり、荒廃せしめ死の世界と化さしめるゆえに、作物達が生きるに必要な肥料が必要となります。いのちの世界のいのち達は、過去の歴史の上に立ちながら歴史と一体になって今を生きることが約束されており、ゆえに肥料はあえて作ることは必要とせずに過去の歴史の続きを生きることができるのです。

 耕すことによって、こうした大変な無駄が生じてしまうのですから、お米、野菜、果菜、果樹、諸々の食べる為、そして生きる為に、育てるにおいて、耕す必要がないのですから、耕さない方がいいのですから、耕すといけないのですから……人々は本当に愚かで無知ゆえに無駄なところに陥りました。自然なる生命界では耕さないことが基本中の基本です。豊かな自然の森や山や林……いずれも耕していない自然のままであるゆえに豊かとなり、木々草々鳥獣達……多くのいのち達が常に自然なるいのちの活動を盛んとするいのちの舞台となっているのです。気付かねばなりません。一日も早く悟り知らねばなりません。

 

 最近では国連の農業部門から、耕すと有限の土が雨で流れる、水と共に低地に流出する、風で飛ばされ無くなってゆく等々で耕さないことを勧めています。しかし草対策が大変ゆえに数種類の除草剤の使用、そして除草剤に負けない強い作物が必要である為に遺伝子を操作して開発しなさいと、反自然、非自然なことを提案していることを新聞で報じられていました。この提案は、耕さないことが大切であることにおいては重要な提案ですが、その理由は作物が育つにおいても持続可能にするにおいても必要ゆえであってのことではなく、耕すことで有限の土を無くするからという理由であって、そのことによって生じる問題の解決として示している事は非自然なことで、とんでもない問題を招くことになり、本当に人類が幸福裡に生かされることのできる持続を不可能に追いやることになります。

【農薬を用いるといけない】

 そして、次に大切なことは、農薬を用いないことです。化学農薬はもちろんのこと、自然農薬も用いないことを中心することが重要になります。もちろん殺菌、殺虫剤のみではなくて、草を敵とすることにとらわれて、今日、盛んに用いられている除草剤も含めてのことです。

【自然界に害虫益虫の別はない】

 生命界においては、本当は害虫益虫の別がないという事に気付くことが大切です。自然なる生命界においては害虫益虫、有効無効、敵味方の別が無いのが根底にあって、その上で食べて食べられて殺し殺され、生かし生かされているのが自然界生命界の実相実態です。多くのいのち達は、我がいのちを生きるにおいて絶妙に他のいのちを捕らえる、殺す、食べる、しかし決してむさぼらない、足るを当然のこととして知っている、そのことによって生きる、次の子をつくる、老いる、やがては死ぬ……は、自ずから然らしむる自然の営みです。その営みは動物、植物、そして私達人間も同じです。そうした営みの自然界でありながら、常に大調和であり即完全な秩序であり続ける生命界なのです。部分のできごとのみを見て害虫ととらえて殺虫剤をつくり散布しますと、益虫ととらえている虫達生命達をも殺してしまって、豊かな大調和の生命界、自然界の調和を乱し、秩序を壊すことになります。もちろん殺虫剤を使用するにおいても多くの無駄であり、多くの問題を私達自らのいのちにも深く強く招くことになります。

 例えば、害虫益虫の別をつけて水稲の最も大きな害虫だととらえる秋ウンカに対して益虫だととらえるクモは、害虫ととらえるウンカを食べて生きています。ですから、ウンカを害虫ととらえて殺虫剤で殺してはクモは食べるものが無くなります。クモはウンカによって生きることができているのです。害虫と益虫の別のない当たり前の一つの例にすぎませんが、多くの自然界で生じていることの一つ先をみるだけで、害虫益虫の別なく生かし合い殺し合いで生きており、それがそのまま大調和であり大秩序の自然界であることが分かります。もちろん別である動物と植物は生かし合いの関係であり、一体となって生きることのできる存在です。私達人類は環境と別なく一体の存在です。地球生命圏はもとより果て無き宇宙生命圏とも一体の存在であって別ではありません。過去のいのち達、そして未来の生命達とも一体であって、別で生まれ生きることはできません。

 

 身近なところでの農薬散布の結果、私達をはじめ生かされ生きている大切な環境である空気にも大地にも水にも、他の生き物達にも、そして農産物の安全性にも問題を招き、栽培する農夫の安全性にも問題を招き、大切な人間の健康を損ねることになり、健康体に育んでくれるはずの農作物の栄養価はもちろん、生命力が衰えて不足してしまうことになります。

【自然界においては肥料を作る必要はない】

 そして大切なことは、肥料を作る必要はありません。化学肥料はもちろんのこと、有機肥料といえども、あるいはEM菌といえども、土着の微生物といえども、酵素といえども、ミミズといえども、育て作って肥料化にしてはいけません。その必要はないのです。作ることを必要としません。人工で作って田畑に投入してはいけないのです。そのことが非自然なのです。田畑や畦道の草々や、自然農で育った農作物の食せない部分、稲わら、米ぬか、もみ殻、菜種油の搾りかす、大麦や小麦等の精麦のかす等を堆厩肥料として作らずに、養分を必要とする作物の栽培地に適切にそのままの姿で巡らせます。農作物も生きるに必要なものは動植物の死体や排泄物ですが、作物が育っている足元に年々積み重なっていって、それらを好む小動物や微生物達が、作物が生きて育っている場で食べて生き死にすることによって、農作物はもちろん今を生きているいのち達が健全に育つことができます。微生物が生きている、その結果その場で腐植化もするのです。堆肥小屋で堆肥化するとか濃度の高いボカシ肥料を小屋でつくるのは、この自然の営みを奪うことになり反自然となります。他の多くのいのち達が生き死にしているところで、今を生きる農作物も共に一体となって生きることができるのです。自然の山で木々、草々、動物達、鳥達、小さな生きもの達、目には見えない微生物達が共に一体の営みとなって生き死にしているように、そして人間も地球上で他の動物植物達と、そして排泄物も死体も、さらに全過去のいのち達との歴史とも、さらには地球生命圏、太陽系の生命圏、銀河系の生命圏、あるいは果て無き全宇宙とも、別でありながら同時に一体となって共に生かされ生きているゆえに、生きることができるのです。もちろん、水とも土とも天とも地とも、別々であって同時に一体の存在です。

 

 このことは、最も身近なところの田畑においても同じです。“水田でお米だけ” “畑で野菜だけ” “地球上で人間だけ” では生きることはできないのが宇宙生命界でのおきてであり真理です。生きることは、こうしたなかでやがて老い死に至ることでもあって、あるいは生の期間に次のいのちを宿し育てることでもあって、親から子、子から孫へと自然裡に巡る生命界でもあります。何もかもいのち自ずから然らしむる自然界でのことです。一人一人の足元の田畑においても、ここからはずれてはなりません。

【自然界生命界においては形を決めて固定化しない】

(固定化することは決して出来ない生命界です)

 持続を可能にしてくれて安心安全な生活が約束される自然農において大切なことを、もう少し考えてみます。自然界生命界においては栽培の仕方は形式化しない、固定しない、形を決めない……ことが大切になります。いのちの世界では固定化、形式化は決してできないのです。してはいけないのです。作物の性質に応じる、従ってゆく、そして適期に的確に対応したあとは任せるということが必要となります。天候にも、土質にも、土地の状態、田畑の状態や変化、そしてもちろん作物の性質や季節との関係や気候にも、さらには地球生命圏の時の流れの変化にも応じて、従ってまいります。氷河期、温暖期ありです。耕さない田畑は、あるいは自然界、生命界は変化、変化ですので、持続可能な自然農といえども型は決めることはできません。いのちの世界におけるいのちを育てるのですから、いのち達の性質に従わなければなりません。いのちの営みから生じる変化にも適切に応じてゆかなければなりません。このことは大切なことであり、いのちの世界では基本となることです。いのちあるものみな異なり同じものは無く、そして時があり時の流れがありますゆえに、常に変化するのですから。それがいのちというものですから。人間の育ち方育て方も同じです。

 

 こうしたことは、地球上どこにおいても変わらない基本のことであって、いつの時代にも通じる変わらざる普遍のことです。そしてその地に木々草々が生えて育っているならば、穀類、雑穀類、果樹、果菜、野菜……生きるに必要な食べ物は、過ぎたる多くのお金も肥料も農薬も大きな農機具も必要とせず、小さな道具を使っての手作業の自然農のあり方で必ずいのち豊かに宿して育つものです。その結果、生きることが約束されるのです。いのちは侵されることなく、環境を破壊することなく、いのち達は当たり前に育って、人類は人類の寿命ある限り生き続けることができるのです。

 

 基本となる大筋のことを話しましたが、さらに細かなこと、部分のこと、特別なことなど、考えながら、お伝えしてまいります。

【自然界生命界の本当のことを理解し認識するに必要な人としての本来の智の働き】

 持続可能なる自然農でありますが、実現可能には、人として人類として人間社会としての生き方、あり方にかかるものです。一人の人間としての、自然から遊離せず反自然、非自然とならない自然なるいのちに応じての正しいあり方は、同じ地球上に生きる全人類に共通するものであり、人間社会の構成、構築においても、人間社会で生きてゆくにおいても矛盾するものではありません。ところで生きるに大切な住においては、今日までの住居圏づくりの都市化による都市文明は、反自然、非自然の大きな誤りの姿です。紀元前より、エジプトで、ギリシアで、ローマで、メソポタミアで、インドで、中国で、韓国で、そして日本で、地球上で今日まで全人類においての自然の道、人の道から外れた展開をしてきました。

 

 この宇宙生命界自然界に生きる自然本来の道、特に衣食住においての正しい道、そして人としての誠の道の理解は、人として欠かせないことであります。なのに、正しい道からはずれた道に陥ってきました。本当のこと、真なることを理解することの出来ない人間性の堕落、退廃に陥っているからです。

 

 この自然農も本当に持続を可能にしてくれる農であるのかを正確に理解認識することができなくなり、自然農における具体的な育て方、手の貸し方である農作業においても、基本となる根底の宇宙自然観、生命観、そして生き方における思想哲学においても迷路に、暗闇に陥っています。それが本当のものなのか、具体的に本当に育つのか、本当に専業農家として生活してゆけるのか、人類の食糧は約束されるのか、人間がこの地球上で生きていくことのできる本当に持続可能なるものなのかの理解と認識も、多くの人はできなくなっています。こうした人間社会で自然農で生きるには、実践においても、生命界の法においても、正しく理解することが不可欠であります。その為には、必要な智恵と心の根底に宿る魂が濁ることなく清らかであって聖であらねば心には本当に正しいことは観えてこず、魂には響き届くものではありません。真の人間としての人間性の大いなる成長が欠かせません。心の狭い知恵、小賢しい知恵と未熟な人間性の成長では駄目であります。

 

 いくら持続可能にする本当の自然農なのだと言葉を尽くして説明しても、又、疑問にいくら答えてあげても、小賢しい曇った智恵、麻痺した智恵では理解出来るものではありません。正しいことを正しいこととして聞きとれる肉耳の奥にある心の耳、真耳、そして本当を観ることのできる心眼、悟った慧眼が働いていなくてはなりません。本当に育っている農作物の実際の姿、自然農の豊かに生きている田畑の姿を実際に見ていても、事実の説明を生命界の理を、自然農の本質をいくら聞いても、理解出来るものではありません。その俗心邪心で、あるいは今日常識化してしまっている曇った小人の状態では、実際の自然界生命界である山や森や林や草原地帯や未開の大地や海中での自然なる姿を見ても、そしてこの真実なる自然農を見ても、その実態実相の意義も意味も理解することは出来ません。本当のことが理解できる人、すでに分かっている人は、ごく一部の人であって、ごくごく少数ではありますが本当に優れた人はおられます。このことは、いつの時代にも通じることですが、中心の流れは誤った方に流れています。

 

 今日の多くの人々は暗闇に陥っています。農業を専業とする人も、専門とする学者さんも、専門の研究者も、そして新聞や書籍、テレビ、ラジオ等を通して正しい本当のことを伝えるべきの仕事に携わっている人達もしかりです。曇っている小人ゆえに、本当に正しいことは分からなくなっているのです。多くの人達は、自然なるいのちのわずかなる一点のみ、生命界の一面のみ、枝葉の部分のみ、表面のみを見て狭い狭い一理のみで、これが本当のことに通じることで真理にたどりつくことだ、あるいはすでに真理であって正しいことだと思い込み、決め込んで、日々に誤ったことに取り組み発信し発表しています。あるいは誤りに気付いて警鐘を鳴らす人はおられますのに、真の答えを見出すことはできずにいます。真の智恵も心の目や耳や感覚感情や五感六感、全存在に授かっている知力能力察知力が曇り麻痺しているゆえに正しく働くことがなく、決して真のところに至ることがないことに気付かないでいます。残念です。気付かないと真の幸福には、そして真の持続可能には至れません。早く目覚めねばなりません。悟らねばなりません。正しいことは一つしかなくて、それに従うしかないのですから。

【いろいろな代替の農業について】

 現行の化学農業や大規模機械化農業の誤りに気付いて、代替の農業がいくつか世界から出されてきましたが、それらの農における基本となる面を自然界、生命界に照らして、本当に真であるのか、本当に問題を招かないのか、持続が可能となるものなのかを観ることにします。伝え聞いたことと、新聞、書籍、テレビ等で報じられていること等で、僕が知る範囲の中での事であって、異論のある方、あるいはもっと正確にご存じの方は、その他いろんな事を、このインターネット「自然農・いのちのことわり」を通して伝えあって、気付きあって、多くの皆様達で語り合って真のところに極めてゆくことになれば意義深くなり、本当に素晴らしいことになってゆくと思います。もちろん今日生きる私達にとって是非に必要なことであります。

  1. 有機農業
    化学農業の発祥の地ヨーロッパで、その誤りに気付いたヨーロッパの思想哲学者から書物を通して出されて日本にも入ってきたものであります。他にもいくつか有機農業の紹介書として翻訳して紹介されたものがあります。そうしたことによって多くの日本人も共鳴して日本でも有機農業化が始まり、消費者とも一体となって運動ともなりました。その他のあり方である農法は、日本の地で出され生まれたものです。

  2. EM農法
    微生物を有効無効の別をつけて、作物を大きくしてくれる微生物の働きを取り入れ肥料化したものです。又、耕す、草や虫を敵にするといった反自然な基本となる大きな過ちに陥った在り方であると思えます。

  3. 土着の微生物
    農法EM菌のように有効無効の別をつけずに、その土地土地で自然に発生する微生物の働きを取り入れて堆肥化して、あるいは「ぼかし」としての肥料を作り用いる方法です。やはり大きく誤る、耕す、草や虫を敵とする在り方になると思えます。

  4. アイガモ農法
    大切な草を敵にしての農法であり、水田における水稲における場合であって、耕し肥料農薬を用いての栽培法であり、アイガモを飼育せざるを得ないということも必要となり、水田でアイガモと水稲のみが生きているという非自然な水田になっていると思えます。

  5. マルチ農法
    4.と5.いずれも、敵としてはいけない草を敵として除草剤を使わずに除草対策としての農法であって、耕すことと農薬と肥料は必要とすることにもなると考えられます。いずれも草を敵とした上での一つの解決法に過ぎず、新たな問題を招くことになり、マルチするものを作る必要も生じます。

  6. 福岡正信氏の自然農法
    無肥料、無農薬、不耕起、無除草を、あるいは粘土団子による米麦同時直播を中心に打ち出された農法です。お米の収量は、普通の倍量一トンとも示し、特許に値する粘土ダンゴとされ、実際には実現しないことを、農業を知らない出版者の都合と編集者の誤った思いと誠実心の欠落した心から発表されたものゆえに、多くの人々がアッと驚きました。外国にもその書物が翻訳されて出版され、著書が大きな反響を呼び感銘感動を受ける人も多くありました。その結果、形式化と固定化の問題と同時に福岡さんを神格化しての大変な問題も生じて、事実ではない誤りのまま伝わり絶対化され、正しい道からはずれることになり多くの問題が生じました。
    人間社会における、特に政治、宗教の分野で、あるいは芸術の分野で、正しさからはずれ誤った内容からの神格化と絶対視の弊害は、近い時代においてはドイツでのヒトラーの如く、現代においては中国、ロシア、北朝鮮の国々でも、その他の国々でもしかりです。そして日本の過去においても、大きな不幸が何度も何度も生じました。人間の心の内は容易には変わらず、浄化は成されず、自分を省みることができず、未来にも続くだろうと思える状態が世界の国々で、民族間で、一人の人間の中で、そして人間社会において見え隠れしています。そうした状況で、一人の人間を絶対視、そして神格化することは、改まり治まることなく続いて不幸と化しています。支配と依存、そして正しく生きることからの逃避となり、真の自立を体得せずに未熟のままの現実に居ます。一人一人が、国々が、人類全体が、一日も早く是非に真の人としての成長をいたさねばなりません。そこに真の平和と心からの平安の日々があり幸福な人間社会があります。自然の道、人の道からはずれた誤りによる絶対視と神格化は人間社会から起こり得ない、決して起こさせないようであらねばなりません。起こしてはいけないことですが、一人一人が正しいあり方からはずれるゆえに、断えることなく今日も生じています。人間の真の幸福にかかわることゆえに残念です。
    農の分野における福岡氏が神格化されてしまって生じた弊害を取り除かれるために、僕の知った事実を話すことにいたします。『わら一本の革命』による福岡正信氏の出現は、日本にインドに、英語、仏語、スペイン語、中国語、ロシア語、他数か国語に翻訳出版され……等々、大きな一時の出来事となりました。今日の自然から遊離した誤った農業や生き方に警鐘を大きく鳴らすことにはなりました。この点においては大きな働きであったといえます。ところで、実践には実現不可能ないつわりと、そして誤った内容のものであったゆえに、日本ではもとより自然界生命界の世界中のどこにおいても実現するものではありませんでした。さらに大きな理由は、自然界では通用しない、固定化、形式化したものとしたことによります。その上に収穫量を過大化して発表されたことによります。その結果、栽培法の絶対視と福岡氏が神格化されるという大きな問題を招くこととなりました。
    ここで、一人の人間が神格化されることについて考えてみます。神という言葉を正しく理解認識していないといけませんので、先に考えておきます。神すなわち真実という意味です。真実の性すなわち神の性、自然界生命界における真実を生みつくる主は神とも表現します。そして神すなわち宇宙です。ゆえに神の性、すなわち宇宙の性とも表現します。すなわち大いなる宇宙のいのちとも表現します。宇宙は常に休むことなく生み、育て、死なせ続ける働きがあるゆえに「いのち」ととらえます。この宇宙は地球を、太陽を、星々を、そして人類を、あらゆる生き物を、姿形有る物を生み続け、そして死なせ続けます。この宇宙の働きからは、時空という言葉で言い表す働きがあるゆえにです。この大いなる宇宙いのちは、すなわち絶対なる存在であり、永遠なるこの絶対宇宙世界に相対世界である現象界を現出せしめます。この大いなる絶対、宇宙本体いのちは永遠不滅であり、始め無く終わること無く無始無終であり、内と外の別無く無辺無窮に存在するものであり、この宇宙を、この時空を、このいのちを、こうしたものを「神」という言葉であらわし表現することがあります。神すなわち宇宙、すなわち宇宙いのち、すなわち時空、すなわち絶対の存在であり相対物を産み、相対界をあらしめ続ける主なる存在であり、いのちの世界の主、すなわち宇宙本体です。この宇宙本体を神とも呼びます。宇宙本体から生まれ生じるすべては相対界の相対物であり、絶対者ではありません。私達も相対界の存在であり、相対物にすぎません。宇宙の子であり、神の子でもありますゆえに、もちろん、すべてに神性を宿すものです。
    この如くに、一人ひとりの人間にも神性を宿す尊い存在ですが、神そのものの如く神格化してしまい絶対視することは大きな過ちです。ここに陥ってしまいますと、そのことによっての混沌混乱を招き、そして不幸が生じて、人間社会を暗闇へとおとしめることにもなります。多方面に大きな不幸が生じることにもなります。このことが、生きるに基本となる大切な農の分野で、福岡さんを神格化することになって多くの問題を深く招き生じさせてしまいました。思わぬところ、意図しない、意識せぬままのところから生じたのです。出版社の立場から、編集者の立場から、夫々の立場から深く、誠実に、そして普通に当たり前に見つめ、誤りを誤りとしてみたならば、そして偽りを書籍を通して表さなければ生じなかった神格化であり、絶対視でありました。その結果、不幸を招き、多くの人が迷いに落ちることになりました。
    無肥料、無農薬、不耕起、無除草、粘土団子による米麦同時直播にして倍量の収量という絶対視と偽りが、強い感銘を伴って神格化を招くことになりました。日本人の多くの人々のところ、あるいは他国にも伝わり絶対視することになり、絶対なるものとなりました。何故にこのようなことが生まれるのかは多くの理由がありますが、その一つとして、一人一人の内なる心に絶対者を求め神の如く神格化したくなる性があり、真理からはなれて、神格化した人に依存する性があります。この宇宙世界で一人で生きることの大変さから生じる人間の弱さからでもあり、愚かさゆえにでもあります。一人一人の中に、そして人間社会にも生じてしまいます。説き示される自然農法の内容は問わず、実現可能なのかをも問わず、問うこともできず、無知ゆえに神の如く作り上げてしまうことになりました。

    次のようなことがありました。ある日の早朝、突然訪ねてくる若い女性がおられました。「水田を見せて欲しい」との御希望だったので、水田に案内して説明しました。初夏だったと思います。稲が元気に逞しく育っている足元には草が元気に生えており、小動物がたくさんの姿を現しており、その草の姿は稲よりもうんと低く、稲の生長を圧迫し損ねることのない、自然農による実際の姿を見ていただき、基本のことを説明しました。草を敵にはしないで、草に負けないように田植え後に約1か月間、夏草、水草の成長を抑える為にノコギリ鎌で草を刈って、その場に敷いておきます。稲の少年期の作業であって、この時は草は抜かずです。しかし、幼い頃の苗床では草は抜いて元気に育つように手助けします、等々の説明をしました。
    その後、再び家に戻り、妻の作ってくれた朝食を二人で食しながら話し合うことになりました。「どこから来られたのですか」と尋ねると、「愛媛からです」とおっしゃったので、「愛媛ならば、こんな遠くまで来られなくても福岡正信さんという方がおられます。その方は自然農法家ですので、その方を訪ねられて勉強されるといいですよ」と伝えると、「私、福岡です。福岡正信の娘で美空と申します。実は川口さんの自然農を紹介する書籍を拝見して、実際の水田を見せていただきに来ました」とのことでした。
    その後の美空さんの話です。「父は農民の苦労を救ってあげたくて研究を始め、取り組み続けてきました」とのことです。福岡さんは地主さんで、土地の無い農民は地主さんから田畑を借りての農業に励み、多くの小作料を納め、家族も生きてゆけるように必死で苦労を重ね生きのびていかねばなりません。多くの小作農民は、皆苦労を重ねて副業も取り入れて生きのびてきました。地主さんである福岡正信氏が、こうした小作農民の苦労から少しでも救ってあげたいとの思いで取り組まれ研究と努力を重ねられての日々だったそうです。
    ある時、その研究成果の自然農法を紹介するべく、出版社からの依頼があってのことゆえに文章化されます。その原稿を出版社に提出された結果、自分が書き示した文章とは少しずれて違っているので、出版社の編集担当者の方にそのことを伝えられましたが、編集者が聞き入れずに「これでいきましょう」と出版された『わら一本の革命』です。その結果、出版社と編集者の思いからも大きく離れた誤った出来事が、日本にとどまらず、特にインドにおいて、わき起こりました。いつわりの栽培方法、さらに自然界生命界では不可能となる形式化、固定化、そして収量の過大化、そうした誤りといつわりを文章と化し出版されたのでした。
    その結果、自然農法の固定化と絶対視です。さらに福岡氏の絶対者そして神格化です。この強い大きな働きと流れに福岡氏も乗っかり、自分を「絶対者」「神」となって、その後その誤りの流れに乗り応じられ、諸々のことに対処してゆかれます。書物の中に、誤りといつわりのあることを明かさず訂正せずに進まれたのです。このようなことに出会うと、多くの人の、あるいは誰しもの人の心の内にある悪なる方、よこしまな心、偽りの方に自分をまかせてしまいがちです。福岡正信氏も迷いに陥り、誤りの方にまかせていかれることになりました。そのまま亡くなられるまでです。神格化には、さらに一人の人間を神格化するという社会性があり、その社会における一人一人の中にそうした誤れる性があります。それも同時に重なって起こったのです。こうした誤りは、いつでもどこにでも、よくあることです。最も身近な足元では「家」という最小の単位の場でも、両親のいずれかが絶対者となり神となって家族を支配し我が物にすることが、今日も絶えません。あるいはスポーツの世界で、特に中学、高校時代の選手と監督との間では常習化している恥ずべき問題でもあります。
    『わら一本の革命』の書が多くの国々の翻訳本として出版されることになりましたが、特にインドに強く関心が生まれました。インドは英国から大変な苦労と努力と願いでガンジーさんを中心として独立を成し遂げましたが、その後、インドの人々の生き方は大きな勢いで変化し、思想的には反自然的なヨーロッパ化してゆく事になりました。そのインドの人々の心の変化、生き方の誤りに嘆いて、何とかくい止めようと取り組む人が、独立運動に身を投じた人々の中から生まれました。その一人、タゴール協会会長のダスグプタ氏です。『わら一本の革命』を翻訳された書物に感銘を受け、福岡氏を日本に訪ねて、インドにその心と実践方法を取り入れようとされます。いずれも自然から遊離せぬ、自然界にいのち達平和に生かされ続けることのできる衣食住を。そして食の中心である農を福岡氏の説き示す自然農法で。衣は糸をつむぎ続けての綿栽培で、住は木や土を用いて整えるという、衣食住を自然に添った柱となるものを明らかにされて熱い深い思いで取り組まれます。そして日本に福岡氏を訪ねてこられて、インドへ招いての普及を強く深く願われます。
    ダスグプタ氏は、ガンジー氏と独立運動に身を投じた人で、「ベンガルのトラ」との異名で恐れられた、強く激しく深い心と熱いいのちの方です。そして福岡氏はインドに向かわれ伝達普及に約20日間余り、カルカッタからタゴール大学農学部を皮切りに、南端マドラスを経て中央デカン高原へと、タゴール大学日本語教師の牧野財士氏の案内で伝えに行かれます。それから数年後、そのダスグプタ氏から依頼が僕にとどきました。「自然農法でたくさんの人達が取り組んだのだが、うまく育たないのだ。彼の思想と実践法に問題があるのではないかと思える。君は多くの作物を育てることができていた。是非に一度インドに来て色々と現状をみて話しをして欲しい」とのことでした。「福岡氏と同じところを同じ牧野氏の案内で用意するから、安心して来てほしい」
    実はダスグプタ氏とは一度、我が家でお会いして話をする機会がありました。福岡さんに会いに日本に来られた時に、通訳の方が我が家と田畑に、自然農で実際に育っている様子を紹介したいとの思いで、ダスグプタ氏と二人のインド人を案内して来られていたのです。
    1990年1月12日~2月3日まで、僕は約束を果たしにインドに行きました。カルカッタをスタートにダスグプタ氏にお会いしてから、タゴール大学農学部、タゴール協会農場、セワーグラムの農村科学センター、オルドビルにおける実験国際都市、インド半島南端マドラスから中央デカン高原を上り、中央部ガンジー氏が暗殺された地ニューデリーまで、そして再びカルカッタへ戻り、ダスグプタ氏にお会いして色々と話しました。自然農法で作物が育っていることは皆無でした。自然農法で実践されている場にも案内されましたが、お米は全滅しており、野菜も草に負けて育っていませんでした。育てることのできる人は、おられませんでした。詳しい報告書は後日に、牧野氏を介して届けました。地球上どこにおいても通じる、耕さない、肥料農薬は必要としない、草や虫は敵としないを基本とした自然農を詳しく説明して、その上での具体的な夫々の作物の育て方は、インドの地の気候風土に一年二年と住んで取り組まないと示せないと伝えました。
    「それじゃ、インドのためにインドに数年間来て欲しい」「君が来ることできなければ、インドで暮らすことの可能な若い夫婦を送って欲しい」とのことでしたが、当時、赤目自然農塾では応じられる人がおられませんでした。
    もう一度、インドに御縁がありました。ボンベイの地で「セイブ ボンベイ コミュニティ」代表のキサンメータ氏との出会いによってです。それも通訳の方の橋渡しによります。やはり独立運動に身を投じた方です。彼はインドにおける広大なダム、ナルマダダムの建設を、田畑や村々が水没する住民のために一旦中止してほしいと、日本のODA援助を打ち切るべく日本国に交渉に来られて、ひとまず打ち切り、延期を実現された方です。
    僕はピースボートからの依頼で自然農の紹介をするべく、1990年12月23日~1991年1月4日まで乗船し、1月14日ボンベイで下船後、通訳の方と二人の日本人の三人でキサンメータ氏と出逢い、1月14日ボンベイの街でスライドと講演で自然農を紹介。その後、キサンメータ氏と各地に移動して、農園主等と話し合い、当地方のテレビ等で自然農を紹介。各地の果樹園を中心に案内され、広大なミミズ農園も紹介されましたが、やはり福岡氏の説く自然農法は実現していませんでした。キサンメータ氏と福岡氏の出会いは確認していませんでしたが、氏は「いのちの営みを大切にする自然生活と農業を探し求めて、持続可能な人間生活と栽培方法を確立して欲しい」と強く願っておられました。

  7. 藤井平司氏の天然農法
    呼び名のみで、具体的にはほぼ示されることなく、かけ離れたものになっていたと思います。

  8. 世界救世教の岡田茂吉氏の自然農法

  9. 世界救世教の別派である神慈秀明会の自然農法
    8.と9.いずれも、自然農法と命名されていますが、大農機で石油を用い耕す、あるいは浅く耕す、あるいは有機肥料を用いる等々、自然からかけ離れたものになり、自然に添いきれていない在り方になっていると思えます。

  10. 冬期湛水農法
    岩澤信夫氏の提唱された農法ですが、実践されている人によって少し異なり、耕す、田植機械を用いる……等々、自然からはずれた場合もあるのではと思います。また、日本の気候風土で生きる基本の食生活は、夏は水田にして米が中心であって、冬は麦、小麦が米に加わることになるのが基本であり、理想であると思います。それゆえに、一枚の田んぼで冬期の裏作に排水をはかって麦、小麦の栽培が大切になりますが、冬期にそれを放棄するのは基本からはずれて残念であると考えられます。ところで、コウノトリを育む農法として始まり、絶滅におちいったコウノトリが200~300羽によみがえり、沼地化における自然のよみがえりがありました。耕し機械化による田植えだそうですので、栽培のあり方には問題があります。しかし無農薬での栽培によって、地域の子供達の給食に用いられて意味深いことに発展している地域もあるそうです。

  11. 木村秋則氏の自然栽培農
    木村秋則氏のリンゴ栽培法を紹介された著書とテレビ紹介に、少し自然からはずれた紹介であり、最近の水田での稲作では浅く耕して、あるいは深く耕しての田植の紹介があり、持続可能からはずれるのではと思えることがありました。またリンゴの果樹栽培における真の自然農園を現すものであれば素晴らしいと思いますが、実際は分かりません。

  12.  酵素農法
    かつては、農婦であられた出口なお教祖の大本教も、酵素と有機肥料を加え愛善酵素農法として増産運動に取り入れたものですが、耕す、農薬、除草剤、肥料等を必要とするので問題が多くあると思えます。

  13. ミミズ農法
    12.と13.いずれも、自然界、生命界の出来事の一部のみ、一面のみに気付いて、それを取り入れる農法であって、耕す、草との関係、肥料、農薬の問題の解決はどうしておられるのか、あるいはミミズの飼育はどうしておられるのか等々、問題が浮かびます。数年前に自然農の紹介にインドのボンベイの地に招かれた際、インドの果樹園で、ミミズの飼料を多量に投入してのミミズ農法の畑を案内され紹介されたことがありましたが、ミミズの飼料を投入してのもので自然に即し任せたものではありませんでした。また、インターネットで海外の目覚めた農民達と対談した折にもミミズ農法の方がおられましたが、その方はミミズの生きる場を作り、その箱の中で飼育してミミズがもたらしてくれるものを肥料として用いるもので、自然からはなれたものでした。

 ところで、最初の有機農業のことを、僕が知っている事をもう少し話してみます。化学肥料や化学農薬を使用せずに農作物を育てる。あるいは化学によって窒素・リン酸・カリの三要素を無機化した化学肥料に対して、自然の中で育ったものを肥料化する。有機物である植物や排泄物や動植物の死体を、微生物の働きで堆厩肥(たいきゅうひ)化して肥料として農作物を育てるという考えが中心となる主な考え方です。その中で、家畜の飼料に問題があり、その排泄物を肥料として用いるというあり方にも多くの問題を含んでいます。

 

 有機農法の多くは減農薬、低農薬で、そして田畑を耕すという方法と、草々を敵とする栽培の方法になっている場合が多いと思います。もちろん、当然のこととして有機農といえども、一人一人の考え方や生き方や価値観が異なるゆえに、部分のところで少しずつ、あるいは根底のところで大きく異なっていると思えます。このことは、いろんな代替の農業が誕生してきて取り組まれていますが、相似た事が生じて、正しいものとして統一されたものではないはずです。もちろん全体を統一することはできません。それは自然農といえども相似たことが生じていますのが今日の現状ですが、この混沌と混乱の解決は一人一人の中で何が自然なのか、何が反自然になっているのかを正確に観極め整理して、本当に持続可能な、一点の問題も招かない素晴らしい農を明らかにすることが大切であり、必要なこととなっている今日です。

 真理は一点の問題も生じないものであって、全ての根本から問題を招かず、真の解決につながるものであります。持続可能であると説き示す自然農は、宇宙自然界生命界において生かされ生きる私達人類に、あるいは地球環境にも食生活においても栽培する農夫においても、その他諸々の方面においても、何一つ問題を招かない栽培のあり方です。

 

 すでに持続を可能にする真の自然農は確立されていることを、言葉でもって全世界に実現可能となるあり方として示していますが、固定化、形式化できないいのちの世界におけることですので伝わり難く、多くの人達が理解して実践は容易ではありません。うまく育たない場合、思わず失敗する場合、思いがけずに元気に育っている場合等々のことが生じます。田畑に立って作業する一人一人が経験と優れた智恵と能力、さらには色々生じるできごとに正確に応じ、手を貸すことの出来る、枝葉や部分や収量にとらわれることなき、内なる心の欲心邪心、あるいは常識化されたことにとらわれることなき、真の智を養い育んだ本当に優れた人間性の成長が是非に必要になります。自然農は人間としての本来よりのまことの生き方にかかっています。同時にまことの正しい人間社会であることが必要になります。

 

 すでに持続可能なる自然農を具体的にも示され、案内書として出版され発売されていて、多くの人達に伝わり実践されている人達が増えています。その最初は1990年初版の『妙なる畑に立ちて』川口由一著(野草社)で、32年後の今日12版として今も求める人に届けられています。その後、『自然農から農を超えて』川口由一著(カタツムリ社、1999年)、『自然農―川口由一の世界』川口由一・鳥山敏子共著(晩成書房、2000年)、『子どもの未来と自然農:川口由一 自然農・子育て・家族を語る』川口由一・鳥山敏子共著(フィオーナ、2001年)、『自然農への道』北村みどり・佐藤幸子・三井和夫・高橋浩昭・石黒完二・石黒文子・沖津一陽・松尾靖子・鏡山悦子共著・川口由一編著(創森社、2005年)、野菜と米麦栽培の手引書として『自然農・栽培の手引き ―いのちの営み、田畑の営み』鏡山悦子著・川口由一監修(南方新社、2007年)、『自然農に生きる人たち:耕さなくてもいいんだよ』新井由己著(自然食通信社、2008年)、野菜編として『自然農の野菜づくり』高橋浩昭著・川口由一監修(創森社、2010年)、果物編として『自然農の果物づくり』三井和夫・勇惣浩生・延命寺鋭雄・柴田幸子共著・川口由一監修(創森社、2012年)、稲作編として『自然農の米づくり』大植久美・吉村優男共著・川口由一監修(創森社、2013年)、『自然農という生き方 ―いのちの道を、たんたんと』川口由一・辻信一共著(大月書店、2011年)、『はじめての自然農で野菜づくり』川口由一監修(学研プラス、2013年)、『誰でも簡単にできる! 川口由一の自然農教室』新井由己・鏡山悦子共著・川口由一監修(宝島社、2013年)、『畑から宇宙が見える~川口由一と自然農の世界』新井由己著(宝島社、2014年)、『完全版 川口由一 自然農』川口由一監修(学研プラス、2019年)、専業農家としての人生書『自然農を生きる』沖津一陽著(創森社、2020年)、そして『自然農にいのち宿りて ―目覚め・悟り・成長への道すじ』川口由一著(創森社、2014年)。さらには、自然農を紹介する翻訳本として韓国語に、中国語に、台湾語に訳されて伝わっています。本当のことを求める多くの人にとって嬉しいありがたいことです。

 

 また1997年には、長編記録映画『自然農 川口由一の世界 1995年の記録』監督:小泉修吉(グループ現代)が製作発表されました。その後、NHK『心の時代』で山田勉氏製作「自然に沿って生きる」が発表され、今日もインターネットを通じて、いずれも発信されています。2011年には、『川口由一の自然農というしあわせ with 辻信一』監督:本田茂(ゆっくり堂)がDVDで発売されました。その他にも、テレビで、雑誌で、新聞で、あるいはインターネットを通じて世界に発信されています。

 

 そうしたなかで、実践を通して理と合わせての学びの場「赤目自然農塾」が約30年前に誕生しました。自然農を自分の人生に取り入れたいとの深い願いを抱く人が増えてきたゆえの誕生でした。今日も求める人が多くあって続いています。また日本の各地にも自然農の学びの場が誕生しました。今日においては、全国で約60数か所に増えています。伝えることのできる人が育ち、求める人があってのゆえです。数年前からは、『妙なる畑に立ちて』の韓国語訳者の崔成鉉氏が、韓国の地で学びの場をも創って、求め来る人達と共に学び伝えておられます。うれしい、ありがたい流れです。

 真に持続を可能にしてくれる自然農が多くの人達に正しく伝わりゆくことを、心から強く深く願っています。

                     (2022/8/20 奈良県 川口由一さん投稿)

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